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故事发生的时间是20世纪50年代中期,地点在银座。主人公满佐子是新桥地区一家著名饭店的千金小姐,在大学专门学习艺术,是个有文化、有教养的女孩。虽说如此,但这位22岁的大小姐总是有些地方不够成熟,她迷恋着一位只有一面之缘的演员,那演员只是曾经某一次来饭店时同她合过影。然而,对于满佐子来说,同这名演员结婚是她梦寐以求的事情。满佐子的小学同学金子是个艺妓。她的愿望就是得到一个能够完全支持和鼓励自己的丈夫。此外,还有一个人,她是金子的前辈小弓,是一位中年艺妓,她的愿望是拥有很多的金钱。为了达成愿望,三人计划一起渡桥。然而,不料计划开始时,又多出来一个不相干的人来。原来满佐子的母亲担心她夜晚外出会不安全,于是就让女佣美奈跟随她们同去。女佣美奈刚刚从东北部的穷乡僻壤出来,皮肤黝黑、身材魁梧、面容丑陋,头脑好像还不怎么灵活,对于这样一个人,满佐子毫不掩饰对她的鄙夷之情。尽管如此,满佐子看她还算亲切,于是就建议说,反正机会难得,不如跟我们一起去许愿。但美奈反应似乎比较迟钝,也不晓得她到底明不明白这个旅程的意义。于是,四个人踏上了许愿之旅。目的地首先是架在附近的筑地川(隅田川的支流)上的桥。队伍中小弓在前面引路,满佐子和金子手挽着手沉默前行,仿佛陷入了各自的思绪。后面跟着的则是踉踉跄跄的美奈,她似乎总是邋里邋遢的。三吉桥第一座需要渡过的是三吉桥,这是一座Y字型的三叉桥,从一边到另一边算一次过了两座桥。在渡桥之前,许愿者要双手合十进行祈祷,过桥之后再次进行祈祷。她们顺利渡过了此桥,接下来需要依次渡过筑地桥、入船桥、晓桥、堺桥,最后一座是备前桥。夜深人静,街上空无一人,不禁让人觉得,愿望似乎能够顺顺利利地轻松实现。然而殊不知“必须克服的困难”正在前方等着她们。在进入第四座入船桥之前,金子最先掉队了。她在来到这座桥之前,肚子就已经开始隐隐作痛,终于疼痛难忍,不得已便顺着来时的路返回了。接下来是第五座晓桥。正当她们渡桥时,不料引路的小弓被前方来的一个女人叫住了,原来此人是小弓以前的相识,开始时小弓并没有理她,岂料这女人抓着小弓的手腕纠缠不休。不得已小弓就与她搭话,而就在此时,她也意识到自己破了此行的规则,愿望已经宣告落空。于是满佐子抛下了小弓,开始兀自匆忙向前赶路,完全无暇顾及掉队者。她与美奈走过了第六座桥,最后只剩下一座桥了。此时,继续跟在后边的美奈令满佐子越发厌烦——在金子离开之后,满佐子一看到美奈在旁边学着她双手合十进行祈祷的样子,就会感到不快。就在这时,三岛的笔锋一转,开始展现他出人意料的构思,美奈的存在变得越来越明显。他继续这样写道:“满佐子感到十分厌恶烦躁,一个魁梧的女人紧紧地跟在自己身后,怀抱着完全不明所以的愿望,这感觉与其说是厌恶,倒不如说是越发强烈的不安,这种不安强烈到近乎让人恐惧。满佐子从不知道,原来别人的愿望会如此让自己心情烦躁,仿佛身后有个黢黑的大石块向自己逼近一样”。终于,她们来到了最后一座桥,备前桥。正当满佐子双手合十,努力地祈祷着,恰巧一旁正在巡视的警官看到了她那努力虔诚的样子,警官对她们的行为感到可疑,怀疑她们是想在此投河自尽。面对警官纠缠不休的盘问,最终满佐子无奈大叫着回答了警官。而就在这时,美奈倏地超越了满佐子渡过了最后一座桥,过桥之后她虔诚地献上了第十四次,同样是预示着愿望达成的最后一次祈祷。美奈究竟许了什么愿望,小说的最后也不得而知,尽管满佐子一再追问,但美奈只是“不置可否轻蔑地一笑了之”。傲慢而无所畏惧的千金小姐,却在桥上被擅长沉默、土里土气的女佣所逆袭。故事读完让人回味无穷,读者会不禁咀嚼这带着些许诡异怪诞风格的故事情节,可能有读者甚至想要亲自尝试去过这七座桥。但如今筑地川本身已被填埋,空剩一座没有河流的桥,而且第六座堺桥也已被拆除,七座桥如今只剩下六座,看来这愿望是永远都无法实现了。満佐子22歳。新橋の一流料亭・米井の箱入り娘。早大芸術科に通っている。勝気だが、色事については臆病で子供っぽい。小弓42歳。芸妓。五尺そこそこの小肥り。大食。かな子22歳。芸妓。踊りの筋がいいが、旦那運がなく、踊りのいい役がつかない。満佐子とは小学校の同級生。みな満佐子の家の新米女中。色黒で太い腕の田舎娘。引っかきまわしたようなパーマの髪。胴間声。ふくらんだ頬に糸のような目。口をふさいでも乱杭歯のどれか一本がはみ出る。小えん元芸妓。風呂屋帰りで、だらしなく浴衣の衿をはだけ、金盥をかかえた洗い髪。頭がおかしくなって妓籍を退き、養生している老妓。警官パトロールの若い警官。橋づくし/三島由紀夫のあらすじと読書感想文(2011年2月6日)橋づくし/三島由紀夫「橋づくし」(三島由紀夫)という作品のあらすじと読書感想文です。「橋づくし」は、短編集となっている新潮文庫の「花ざかりの森・憂国」に収録されています。一般の知名度は低いかもしれませんが、コアなファンや研究者の間では極めて評価の高い作品です。「橋づくし」の冒頭の段落を引用します。「陰暦八月十五日の夜、十一時半にお座敷が引けると、小弓(こゆみ)とかな子は、銀座板甚道(いたじんみち)の分桂家(わけかつらや)へかえって、いそいで浴衣(ゆかた)に着かえた。ほんとうは風呂(ふろ)に行きたいのだが、今夜はその時間がない」陰暦八月十五日の夜は、いうまでもなく、中秋の名月。かぐや姫が月に帰る満月の夜です。ちなみに、2011年の中秋の名月の日は、9月12日。「橋づくし」は、4人の女性が願掛けをしながら7つの橋を渡る道程を描いた作品です。本文中、「月が望みを叶(かな)えてくれなかったら、それは月のほうがまちがっている」『まあ、お嬢さん、粋(いき)ねえ。黒塗りの爪紅(つまべに)なんて、お月さまでもほだされる』「気がつくと、あれほどあきらかだった月が雲に隠れて、半透明になっている」など、月や月明かりに関する描写がふんだんに盛り込まれています。「橋づくし」の時代設定は、22歳の女性二人が「爪紅」という言葉を使った42歳の女性をからかい、からかわれた女性が「知ってるわよ。マネキンとか云うんでしょ、それ」とやりかえすころ。寝静まった銀座の街から見上げるのは、『晴れてよかったわね。本当に兎(うさぎ)のいそうな月』。4人の行動には、「今夜の願事(ねぎごと)はお互いに言ってはならない」『家を出てから、七つの橋を渡りきるまで、絶対に口をきいちゃだめ』『いい橋を選(よ)っといてくれた?』(=橋の選択は自由か)「一度知り人から話しかけられたら、願(がん)はすでに破れたのである」などと、細かなルールがあるようです。また、正確には4人が渡る橋は6つなのですが三方向に分かれている橋を2回と勘定します。それぞれ渡る前と渡ったあと、合計14回、手を合わせてお祈りをします。「橋づくし」は3人称で書かれています。「橋づくし」の語り手は、中秋の名月の夜に7つの橋を渡ると願い事がかなうという風習については、何の説明もしません。「橋づくし」の冒頭で、男女が橋を渡りながら死出の旅へたつ『天の網島・名ごりの橋づくし』から、プロローグ的に一節が引用されているだけです。しかし、4人の行動や細かなルールを追っていくうちに、読者はいつのまにかそういった風習があることをすり込まれていきます。語られる文章はどこか報道の文章に似たともいえる小気味よいリズムを持っています。「橋づくし」の語り手は、「この三人の願いは、傍(はた)から見ても、それぞれ筋が通っている。公明正大な望みというべきである」と、3人称の語り手なのにいきなり「べき」論を持ち出して主観を展開し、あげくに、「三人の願いは簡明で、正直に顔に出ていて、実に人間らしい願望だから、月下の道を歩く三人を見れば、月はいやでもそれを見抜いて、叶えてやろういう気になるにちがいない」と熱を入れて大仰に語り(というか主観的、あるいは、願望的な持論)を展開します。それでいて、一行が一つずつ橋を渡りながら知り合いから声を掛けられるなどの出来事に遭遇するうちに、いつのまにか、登場人物たちやその行動から距離をとって、読者に作品世界の中の出来事をどこか曇りガラスの向こう側にある風景のような見せ方をします。ラストシーンで1人の女性が持っていき場のない憂鬱さを皮膚感覚の中で感じている様子を描写するなど、「橋づくし」は読み応えじゅうぶんな作品です。また、「橋づくし」には「憂国」の主人公である自決した男のような人物は登場しませんが、「橋づくし」に登場する女性たちは月明かりの明暗を感じたり、小指をからませて歩くような大の仲良しのくせに相方が途中で抜けてしまうと「落伍(らくご)した者は、これから先自分とはちがう道を辿(たど)るほかはないという、冷酷な感慨」が浮かんだりします。女性たちの描き方も、訪問先の座敷の勝手で食事を無心することにより置き屋に納める食費が浮いているなど生理現象としての(というか何らかの精神的な不安定さに起因すると想像できる)空腹感や金銭的現実性を持ち出したり、風情のない橋にも潮の匂いを感じて海を感じさせたり、3人の願いがそれぞれ、”金がほしい””旦那がほしい””映画俳優のRと結婚したい”というものであったします。「橋づくし」のストーリー展開に注目すると、最後の最後で、警察官から不審者と思われて追いかけられてしまった満佐子(願が破れた)は、男のあとを追って自刃した「憂国」のもう1人の主人公である女性に、どこか似ていると思いました。また、最後まで口をきかずにただ1人14回の祈りを成し遂げた満佐子の家の使用人である”みな”は心理描写をされずに橋を渡っているうちに満佐子にとって未知の存在となり満佐子もそれを本能的に感じているという展開が、「憂国」の女性が自刃するときに未知なるものを感じるという結末の作り方に似ていると思いました。さらにもう一ついうならば、ラストシーンにたどり着くまでは、語り手は、いちいち、ここの風景はきれいなのですよ、このときの満佐子はこんな気持ちになっていたのですよ、満佐子の気持ちはこうでそれは価値観としては妥当なのですよ、などと、いちいち読者に口を挟ませないでおいて、現象を客観的に描くという範疇を超えて「語り手」が半ば勝手に持論を展開してきたのですが、最後の場面だけ、違和感に落ち着かせる先を見出せないいまま放置された満佐子の様子を、価値判断なしに、提示するだけにとどめていました。結果として、読者は、解釈や味わいを自分で探すはめになります。ひらたくいいますと、読者にゆだねられたということになると思いますが、鮮やかだと思いました。また、「橋づくし」の「語り手」が、「冷酷な」という形容詞をそのまんまさらりと使っているところも、おもしろかったです。冷酷さを表現するために「冷酷」という言葉を使ってしまったらある意味終わりですし、「美しい」という言葉を使わずに「美しさ」を表現することが文学であるという伝統的な考え方は今でも根強いと思います。しかし、三島由紀夫は、さらりと、「冷酷な」という言葉を使っていました。また、1人が脱落したあと、3人は無事に入船橋を渡ります。川の向こうに「聖路加病院の壮大な建築」が見えてきたときです。「語り手」はそれまでは読者を迷わせるような語り方はしてこなかったくせに、突然、「それは半透明の月かげに照らされて、鬱然(うつぜん)と見えた」などと語り始めます。直後に、病院の建物の金の十字架が赤く照らし出されている様子や、闇に包まれているのですが病院の背後にある会堂の「ゴシック風の薔薇窓(ばらまど)が見える様子が描かれています。しかし、病院が「鬱然と見えた」のはわかるのですが、誰にそう見えたのかというと、それは語り手にとってそう見えただけであるような気がしました。価値観は多様ですので、同じ風景を見ても、ある人には「鬱然」としていても、別の人にはそうぜんと見えるかもしれません。また、第5の橋である暁橋は、「毒々しいほど白い柱」「奇抜な形にコンクリートで築いた柱」などと描写されますが、登場人物がそう思ったのではなくて、たんい語り手が「毒々しい」「奇抜な」と、客観的現象として、もしくは、作品世界
本文标题:三岛由纪夫
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