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毕业论文题目日本大和民族の物哀れの審美意識についてi关于日本民族物哀审美意识【摘要】“物哀”是日本江户时代国学大家本居宣长提出的文学理念,同时也是日本美学的基调。“物”,指世间万物,“哀”,指悲哀,物我同哀是最直观的解释,但它的内涵又不仅仅局限于此,物哀的范围要比悲哀广阔得多,著名日本文化研究专家叶渭渠指出:物哀除作悲哀、悲惨、悲伤的解释外,还应包括同情、感动、壮美等含义。这种情绪,包括对他人悲哀的共鸣,乃至对世相悲哀的共鸣。1物哀涉及到了日本人的情感世界,影响到日本人的生活方式。甚至成为了日本民族心理基因的一部分。不论是在优美的日本文学,还是在日本人的日常生活中无处不见这种审美意识的存在与影响。其形成一方面受到日本岛国固有的自然条件、地理环境以及日本民族特有的自然观的影响,另一方面亦具有浓厚的宗教色彩。【关键词】物哀;审美意识;自然观①《物哀与幽玄》叶渭渠著第134页广西师范大学出版社2002ii日本大和民族の物哀れの審美意識について要旨「物哀れ」は江戸時代の国学の大学者である本局宣长が提出した文学理念だ。同時に、日本美学の基礎でもある。「物」は世間万物、「哀れ」は悲しみを示して、物我は同時に悲しみを感じるのは最も直観的な説明だが、その意味はこれだけではない、「物哀れ」の内包は悲しみよりずっと広い。日本の有名な研究家である葉渭渠によると「物哀れ」は悲哀、悲惨、悲傷の意味を除いて、同情、感動、雄壮で美しいという意味も含んでいる。こういう情緒、他人の悲しみの共鳴を含み、更には世相の悲しみの共鳴も含む。物哀れは日本人の感情の世界に浸透して、日本人の生活方式にも及んでくる。日本民族の心理の遺伝子の一部分にもなる。優美な日本の文学であろうと、日本人の日常生活であろうと、こういう審美意識の存在と影響がどこにも会わなくない。その意識の形成は島国としての日本の固有の自然環境、地理環境及び日本民族の特有な自然観の影響を受けて、また濃厚な宗教の色もある。キーワード:物哀れ審美意識自然観目次はじめに……………………………………………………………1第一章「物哀れ」の由来と進化の過程...............................21.1「物哀れ」の由来...............................................21.2「物哀れ」の進化の過程.........................................21.2.1「哀れ」...................................................21.2.2「物哀れ」.................................................3第二章日本の文学作品の中から表現する「物哀れ」...................4第三章日本人の生活の中の「物哀れ」...............................63.1日本桜の「物哀れ」の美しさ....................................63.2古典庭園の「物哀れ」の美しさ.................................6第四章日本人の審美意識の根源.................................84.1自然環境の影響................................................84.2宗教意識の影響................................................8終わりに.........................................................10参考文献.........................................................15謝辞..........................................错误!未定义书签。1はじめに物の哀れとは、人性を知て、人情を重視して、人心を順応して、人の感情を理解するということだ。それは上品、それはみやび、それは落ち着き、それは俗を離れること、それは優しい美しさのあること、細く美しいこと、感情が細やかなこと、世俗的な物事に拘らないこと。自然な人性を原点にする、世俗観念を無視する、万事万物を包容する、理解する、同情するのこと。特には嘆き悲しむこと、感心して褒め称えること、哀れむこと悲しむこと、気の塞ぐことなどの心に留めて忘れない感情の共鳴力、共感的理解の能力だ。世間の万事万物を目で見て、耳で聞き、心で感じて、そしたら、物哀れの意味が少し分かると思う。さらにいえば、物哀れというのは万物から湧いてくる感情を感じて、そして心得たものだ。又、ある意味からいって、物哀れは他人及び世間への哀れの共鳴だ。2第一章「物哀れ」の由来と進化の過程1.1「物哀れ」の由来「もののあわれ」とは、『石上私淑言』で宣長は、歌におけ「あはれ」の用例をあげながら、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」を「あはれ」と言うのだと述べている。つまり、揺れ動く人の心を、物のあわれを知ると言うのだ。歌や物語もこの心の動きがもとになる。たとえば、宣長が高く評価し「源氏物語」も、「この物語、物の哀れを知るより外なし」と言っている。文学はそのような人間の本性に根ざしたものであり、そこに存在価値があるだ。これは、宣長が、和歌や「源氏物語」から見つけた平安時代の文学、また貴族の生活の底流を流れる美意識だ。この「もののあわれ」と言う文学的概念の発見は、宣長に和歌の発生からその美的世界までの全局面を把握し説明することを可能にした。「安波礼弁」で、「歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ」と言い、歌の発生はここにあるとする。「もののあわれを知る心」という、人が事にふれて感動し、事の趣を深く感受する心の働きから歌が生まれること、そしてその感動を言葉にしてほかの人へも伝えたいという伝達の欲求から「よき歌」への関心もまた生じる事が説かれた。1.2「物哀れ」の進化の過程1.2.1「哀れ」「物の哀れ」は長い期間をかけて、「哀れ」から発展した。奈良時代、平安時代初期、神、民族、国家共同体を追求する中の「誠」意識から「哀れ」が出た。古代神話、歴史伝説、歌謡などの口承文学からまず「誠」意識が現れ、それを基づいて、「哀れ」という美意識が芽生えた。「あはれ」は最も「あ」と「はれ」と二つの感嘆語の組み合わせとして、人々が労働、戦闘、信仰、性欲などの衝動で発した喜び或いは悲しみの言葉で、ある本能的な感慨だ。文化がまだ混沌していた時代には、他の文学の表現法がまだ現れていないから、このような感嘆語は「歌」として古代の原始歌謡に現れた。「あはれ」は日本漢字で表現すると、「哀」になる。字を見ると、哀愁の意味を読み取れる。正倉院の古書には万葉仮名で書いた例がある。「春佐米乃阿波礼」。これは春雨を見て「哀れ」な気3分になって、ある繊細で哀愁な感情の表現だ。「哀れ」は哀愁だけでなく、歓喜の意味にも使われている。『古語拾遺』には天照大神が現れたとき、空が晴れ渡って、神々が喜び合って踊りながら、こんな歌を歌った。「哀阿那于茂志吕(あはれあなおもしろ)」。1.2.2「物哀れ」「哀れ」が広く使われるうちにだんだん単純の感嘆から物心合一の意識まで発展して、「哀れ」は悲哀、同情、愛憐などの感情を表して、感傷的な傾向がある。可憐な対象を主体として、人の真情を表現した「哀れ」は「誠」の美学精神と通じる。同時に対象の中に主観的感情的に入り込んで情緒的から情趣的感動になったから、「哀れ」だけではこんな感情、理念を完璧に表せない。この時、対象の上に「の」を付け加えて、「哀れ」と結んで、「物の哀れ」がはじめて出た。「哀れ」は平安時代にやっと「物の哀れ」になって、感動的意味から特別な情趣的意味になった。「源氏物语」はその発展を促して、日本民族の美意識の主体になった。紫式部は「源氏物语」には「誠」を根底にして、「哀れ」を「物哀れ」に発展して、内容も豊富にして、贊美、親愛,共鳴、同情、可憐、悲傷などの内容を表す。また、感動の対象も人と物の限界を超えて、社会世相まで拡大した。調査によると、「源氏物语」には「哀れ」は1044回、「物の哀れ」は14回表したそうだ。だから、「哀れ」から「物の哀れ」の美意識まで発展したのは紫式部によって完成したと言える。国学者である本居宣長は「源氏物语」の作中から「物の哀れ」の用例十二箇所を抽出してこの物語の本質が「物の哀れ」にあることを実証的に論証するとともに、この精神こそが日本文学の本質であると説いた。4第二章日本の文学作品の中から表現する「物哀れ」日本文学の世界に接すれば接するほど、「哀れを重んじる日本文の世界」と「源氏物語」は日本古典文学の最高傑作だと言われている。その全編に漂っている基調は「もののあはれ」である。また軍記物語の代表作の『平家物語』は平家一門が繁栄し、やがて西海に滅び去っていく過程を描き、それにまつわる女性たちの哀れな逸話などを添えて、「哀れ」な物語の世界を創り出した。詩歌においても同様だ。古代から近世にわたって、「あはれ」とか、「さび」「わび」とかの理念は、詩歌世界を貫く日本独特のものだ。「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば」などは、なんという凄まじい情緒だろう。そして随筆として、鴨長明の『方丈記』は天災地変を書いて、人生の変転無常を嘆き、「哀れ」をつくづくと描いた。近代になっても、「哀れ」の調子は依然として日本文学の底に流れている。特に川端康成の文学はその極致に達していると言われる。例えば『古都』の中の、千重子の憂鬱と柔順。一本のリラの花でさえ彼女にあれこれと様々なことを思い浮かばせ、感傷的にさせた。また『千羽鶴』の寂しく美しい歪んだ倫理の世界、『伊豆の踊子』の抒情味ゆたかな青春の感傷、『雪国』の虚無の花と称せられる抒情の哀しい美しさ……。ほかに、芥川竜之介の『羅生門』『蜜柑』、三島由紀夫の『仮面の告白』『潮騒』、森鴎外や徳富蘆花、もう少し後の村上春樹などの作品の系列にも「哀れ」の色彩が漂っていると思われる。このように、古代から近代に至る日本文学には、「哀れ」の基調がずっと潜んでいると言えるだろう。確かに、江戸時代の有名な学者の本居宣長が主張したように、「もののあはれ」の文学評論を展開し、日本の文学作品には多かれ少なかれ「もののあはれ」の情緒が隠れていることが日本文学の大きな特徴だろう。現代日本文学においても、同じことが言えると思う。現代の日本文学作品はあまり読んでいないが、大衆文学の反映としてのテレビドラマや映画はよく見ている。日本のドラマや映画は悲劇が多いとよく言われている。日本のドラマや映画を何部も見た後、私も同じことを感じた。『白い巨塔』、『氷点』、『失楽園』、『世界の中心で愛を呼ぶ』、『魔女の条件』、『東京ラブストーリー』、『一リットルの涙』、『神様、もう少しだけ』……一つ一つの悲劇が強く人々の心を打っている。悲劇も「哀れ」の一種だろう。また、映画やドラマは文学様式の一種として、文学の実像を反映していると言えるだろう。上記の事実から、現代日本文学においても「哀れ」の色彩が感じ取れる。このように、はかなさ、寂しさ、むなしさ、哀愁や悲劇を好む「哀れ」な日5本文学の世界は独特で、魅力に満ちている。実は、「哀れ」は文学世界の美意識だけでなく、現実世界の日本の人々の美意識でもある。多くの日本人は悲哀や滅びの中に美を求めている。桜が散るのも、滅びながらも美しい。平凡で円満な生命よりも、短くて悲壮な滅びが美しい、というのが日本的な考え方だろう。そういう美意識があるからこそ、「哀れ」の日本文学の世界はいつの時代でも残るのだろう。6第三章日本人の生活の中の「物哀れ」3.1日本桜の「物哀れ」の美しさ
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