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第一章第一節古代前期の文学概観一.文学背景1.古代前期おおかた五世紀ごろから八世紀まで、すなわち文学の発生から794年の平安遷都までの間を指す。日本史で古代前期とは大和、飛鳥、奈良時代とも呼ぶ。その中でも、奈良時代を中心にしている。この時期を上代とも言う。2.国家の成立紀元前3世紀に、集団による農耕生活が始まり、各地でだんだん小国家が出てきた。4世紀に、大和朝廷が統一国家成立を成し遂げた。3.律令制の確立7世紀に、聖徳太子の改革によって、「憲法17条」が決められた。和を尊び、仏教を信じ、天皇に服従すべきことなどを強調して、すべてが国家の統治に有利である。しかも、これまでの大王の称にかわって、天皇の称号が用いられるようになった。4.遣隋使と遣唐使7世紀から遣隋使と遣唐使が大陸に頻繁に派遣されて、中日両国の交流がとても盛んである。聖徳太子の時、小野妹子が何度も隋に派遣された。奈良朝に入ってから、朝廷がさらに頻繁に遣唐使や留学生を中国に派遣して、日本はどんどん中国大陸から中国文化を吸収した。また、日本の留学生も帰国するに際して、唐から大量の書籍を持って帰る。だから、奈良文化の特徴と言えば、貴族的文化、「唐風」であると言えよう。二、口承文学の時代から記載文学時代へずっと昔、日本の祖先は祭りを通して、共同体を結んでいった.その当時、文字がなくて、祭りの場で、神々や祖先に対して語られ歌われる神聖な言葉は、口々相伝得るより仕方がなく、長い間、子々孫々に言い継ぎ、歌い継いで、伝承されていった。このように誕生した神話、伝説、歌謡、祝詞などを口承文学と言う。大和朝廷は国家を統一すると、朝鮮、中国との交流が盛んになった。4世紀ごろに、大陸から漢字が伝わってきた。そして、だんだん実用化され、6世紀ごろに、漢字で表記できるようになり、文学作品も漢字によって、記載されるようになった。これは記載文学の始まりである。祝詞:古代人は言霊信仰によって、神への祈りの言葉を祝詞と言う。その中には、神事の時群臣に読み聞かせるものとか、祭りの儀式のときに神に祈願するものとか、天皇に上奏して御代の長久を祈るものなどがある。現存するのは「延喜式」の27編、「台記」の別記に収められた「中臣寿詞」の一編を合わせて、計28編である。宣命:宣命と言うのは、天皇の詔を臣下に伝える和文体の詞章である。漢文体を詔勅と言うが、純粋の和文体で書かれたのを「宣命書き」と言う。「続日本記」の62編は現存する宣命である。1.記紀文学――「古事記」と「日本書紀」(1)「古事記」712年に、太安万侶によって編集されたと言うことである。上、中、下の3巻からなっている。日本語で書かれ、前代の伝説、民衆の生活も含み、そこから古代日本人の考え方や個人感情などを理解することができる。文学性がかなり高い。今まで保存している日本最古の書籍である。しかし、「古事記」は最高権利者である天皇や皇室などが人民を支配することを目的としているのである。天地初めてひらけしとき、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次御神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして身をかくしたまひき。――「古事記」(2)「日本書紀」720年に舎人親王などが編集したものである。これは漢文体で書いた30巻よりなる歴史書の形をしたものである。中国の史書にならって、漢文の編年体で書かれたものである。天皇の君主としての地位を正当化する目的で、全体の構想が創作されている。「古事記」と「日本書紀」は日本文学史の中で、最初の整った本の形であろう。記紀文学は人民大衆の文学ではなく、国家最高権利者である天皇、貴族の文学である。しかし、その中から、当時の地方民衆の生活状況や宗教などがわかり、民俗研究の貴重な資料として、かなり大きな価値がある。また、「古事記」「日本書紀」には、“まこと”と言う文学意識が芽生えていた。しかし、それは個人或いは人民大衆の思想感情の表れではなく、大和民俗固有の信仰、即ち神への崇拝と言う原始的な信仰をもとに生まれたのである。言い換えれば、この文学意識は写実の文学意識の芽えともいえよう。2.「風土記」713年、朝廷が諸国に命じて、その国の地理、産物、伝説などを記させた。日本の最初の地誌である。現在5つがまとまった形で残っている。当時の地方の暮らしを知る手がかりとしても重要である。3.「懐風藻」中国大陸文化の強い影響で、日本でもずっと昔から日本人の手によって、数多くの漢詩文がどんどん作られていた。殊に天智天皇が漢詩文を奨励するゆえに、漢詩文の知識や創作が盛んになりつつある。その当時、漢詩の習得こそが官人としての欠かない教養であった。奈良時代には、たくさんの漢詩集が出てきたが、現存しているのは「懐風藻」だけである。「懐風藻」は751年に、編纂された。編者は淡海三船と言われていたが、定説はない。作者はほとんど当時の貴族階級であった。日本の最古の漢詩集として後世によく知られている。その中には、64人の詩120編が収められ、中国六朝の古体史をまねした作品が多い。作品の中には、中国の儒教の思想が明らかに含まれている。殊に「論語」の中の言葉が大量に引用されていた。そうして、中国の伝統的な文化は日本文学に深い影響を与えたと言っても過言ではない。また、この詩集は「万葉集」の編纂にも深い影響をもたらした。4.「万葉集」日本最古の歌集であり、その中に収めている歌は約4500首、紀元340年から奈良末期の759年までの間に作られているものである。450年の長時間にわたっている。大伴家持によって編纂されたものだと言われている。内容から見ると、雑歌、相聞歌、挽歌、比喩歌、東歌、防人歌などがある。その中には、相聞歌は人間同士の贈答の歌、特に恋愛の歌が多い。挽歌は死者を悼む歌である。雑歌はそれ以外の歌や宴席の歌などいろいろなものがある。東歌は東国の一般庶民の生活から生まれた民謡的な歌であり、防人歌は東国から九州防備のために、派遣された兵士や家族の歌である。また、形式から見ると、長歌、短歌、旋頭歌などがある。本文は全て漢字で持って日本語を書いたものである。これを万葉仮名という。その以来、日本語の表記があった。「万葉集」は一般的に、四期に分けられている。万葉一期(発生期)舒明天皇(629年)の時代から壬申の乱(672年)前後までの間を指す。歌は集団的な生活背景から、個性的な叙情歌へ変わっていった。特徴としては、感動を直接に表現した素朴な風格である。皇室歌人が圧倒的多いが、その中には、額田王がその中の代表的な歌人である。大和には群山あれどとりよろぶ天の香具山登りたち国見をすれば国原は煙たちたつ海原は鴎たちたつうまし国ぞあきつしま大和の国は――舒明天皇・巻一万葉二期(発展期)天武、持統、文武の三代にわたる藤原時代から平城京遷都までの約40年。律令国家が発展して、王室も繁栄になってきた。歌の思想内容や表現手法がこの前より複雑になった。その中には、長歌が大いに発展した。特に、柿本人麻呂は万葉中最高の歌人と見られ、長歌、短歌など、後世にたくさんの優れた作品を残してくれた。彼の手によって長歌が完成された。そして、彼は典型的な宮廷詩人で、山部赤人とともに後世に「歌聖」と称されている。彼の歌は、構想が雄大で、技巧の運用に長じるが、ほとんどその当時の大和朝廷や王室貴族を賛美するものである。淡路の野島が先の浜風に妹が結びし紐吹きかへす――柿本人麻呂万葉三期(最盛期)平城京遷都(710年)から天平5年(733年)までの約20年間。この時期は万葉集の最盛期であるから、多くの知識人が出てきた。そして、個性豊かな作品がたくさん作られた。その中に体表的な歌人として、山上憶良、大伴旅人、山部赤人などがいる。特に山上憶良は地位があまり高くないが、彼の歌は内容上に優れたところがあり、子を思う歌や貧窮問答の歌などが、人間味があって、われわれには心から親しい感じが沸いてくるわけである。だから、彼は後世に「思想歌人」と評されている。この時期の歌は繊細で洗練されているが、一期の素朴さは失われてしまった。富人の家の子供着る身なみくたし棄つらむ絹綿らはも――山上憶良あしひきの山の雫に妹待つと吾立ちぬれぬ山の――大津皇子万葉四期(衰退期)天平6年から759年までの20年間。万葉集時代が終わりを告げ、衰退に歩みつつある。歌は次第に固有の力強さを失って、理知的、感傷的となり、繊細優美な情趣を尊ぶようになった。体表的な歌人は大伴家持である。彼は759年に「万葉集」の編纂を完成したので、「万葉集」の集大成者とも言えよう。要するに、「万葉集」は日本古代における一つの偉大な作品として、芸術的にも、思想的にも、優れたところがある。また、われわれはこの作品を通して、日本古代の文化思想、社会風俗、人間関係、両性関係、それに、古代の農民生活、兵役関係などの面影を見ることもできる。さらに、外来文化摂取の旺盛な意欲と伝統的文化の強い生命力との作用が均衡になっており、古代国家上昇期の社会現実が生き生きと描かれている。「万葉集」にも、“まこと”と言う文学意識が表れていたが、「古事記」と「日本書紀」の“まこと”とは違い、個人が現実生活への体験をもとに生まれた個人的な真な情感である。“あわれ”と言う文学精神が“まこと”のもとで生まれたのである。“あわれ”とは恋愛への詠嘆或いは死者への追慕であり、個人の心より発する感情や情緒というものである。その後、“あわれ”は物を対象とする“もののあわれ”と言う文学理念に変わりつつある。5.「歌経標式」772年に、藤原の浜成によって編集された日本最初の歌学書である。漢詩は和歌の性質と違うので、中国の詩学をそのままあてはめるというやりかたは無理であった。和歌に対する批評意識を理論化しようとした。後世の歌学にも深い影響を与えた。第二章古代後期の文学(平安時代)第一節古代後期の文学概観一、文学背景1.古代後期この時期を中古とも言う。即ち桓武天皇の平安京遷都(794年)から鎌倉幕府の成立(1192年)までの約400年間を指す。また、平安時代とも呼ばれる。2.政治律令政治は9世紀に入ってから、急速に崩壊し、藤原一門を始めとする貴族が歴史の舞台に上がった。9世紀中ごろに藤原良房が摂政となり、実権を握るようになった。藤原氏による摂関政治が始まった。そして、11世紀初め、摂関政治は藤原道長が権勢を独占する当時に、全盛期を迎えたが、11世紀後半になって、白河天皇が院政を始めて、衰退期していった。その後、たびたびの戦乱を経て、貴族社会の基盤が大きく揺らぎ、王朝文化も終結を告げた。二、唐風文化から国風文化へ平安初期、唐の文化の影響が依然として存在している。その当時、漢詩文が隆盛を極め、「凌雲集」、「文化秀麗集」、「経国集」などの勅撰漢詩集が次々に編集された。日本人は唐風文化一色のこの時代を「国風暗黒時代」と呼ぶ。しかし、9世紀末、唐の国が衰退するに伴って、日本人のいわゆる国風文化が芽生えるようになった。特に、仮名文字が発明され、和歌が盛んになった。10世紀始め頃に、日本最初の勅撰和歌集「古今和歌集」が編纂され、和歌は公的文学として、漢詩文と肩並べ、隆盛期に入った。また、物語や日記も仮名で書き表れるようになった。たとえば、「物語の祖」と言われる「竹取物語」が伝奇物語の道を切り開く一方、「伊勢物語」、「大和物語」、「平中物語」のような歌物語も次々に書き出された。日記でも、紀貫之が女性に仮託して、仮名で「土佐日記」を書いたが、その後の女流日記文学の誕生を促す。三、女流文学の開花10世紀から11世紀にかけて、後宮と宮廷などで、女流文学が開花した。その先駆として、藤原道綱の母が「蜻蛉日記」を書き、以降の「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」に大きな影響を与えた。また、清少納言の随筆「枕草子」と、紫式部の物語「源氏物語」は、古典文学双璧と称されている。だから、この時代に、女流文学が古代文学史の最高峰となった。四、平安末
本文标题:日本文学史-日文
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