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五、自然主義1、島崎藤村(しまざきとうそん)2、田山花袋(たやまかたい)3、国木田独歩(くにきだどっぽ)文学で、理想化を行わず、醜悪(しゅうあく)なものを避けず、現実をありのままに描写しようとする立場。19世紀後半、自然科学の影響のもとにフランスを中心に興(おこ)ったもので、人間を社会環境や生理学的根拠(こんきょ)に条件づけられるものとしてとらえたゾラなどが代表的。日本では明治30年代にもたらされ、島崎藤村・田山花袋・国木田独歩・徳田秋声(とくだしゅうせい)・正宗白鳥(まさむねはくちょう)らが代表。島崎藤村(しまざきとうそん)•1872年3月25日(明治5年)-1943年(昭和18年)•日本の詩人、小説家。本名は島崎春樹(しまざきはるき)。『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集(わかなしゅう)』などを出版。さらに小説に転(てん)じ、『破戒(はかい)』『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点(とうたつてん)とされる『家』、姪(めい)との近親姦(きんしんかん)を告白した『新生(しんせい)』、父をモデルとした歴史小説の大作(たいさく)『夜明け前(よあけまえ)』などがある。長編小説:破戒(はかい)1906年刊•被差別部落(ひさべつぶらく)出身で信州(しんしゅう)の小学校教師、瀬川丑松(せがわうしまつ)が、「社会(よのなか)」で生きるためには身分を明かしてはならぬという父の戒(いまし)めと、「社会」の不当(ふとう)な差別と闘(たたか)う先輩猪子蓮太郎(いのこれんたろう)が示す正義との間で悩み、父の死、下宿先の蓮華寺(れんげじ)の養女(ようじょ)、お志保(しほ)に対する恋などによって動揺しつつ、蓮太郎の死を契機についに教室で素性(すじょう)を告白し、新生活を求めて町を去って行くまでの物語。差別問題に関して誤解(ごかい)や不徹底(ふてってい)な点はあるが、丑松をじわじわ(一步一步)と告白に追い込む過程や蓮華寺住職(じゅうしょく)の破戒の処置(しょち)を通じて「社会」の陰湿(いんしつ)な体質(たいしつ)が描き出されており、家族制度の抑圧(よくあつ)からの解放を願う藤村の内的欲求(ないてきよっきゅう)と、差別に対する抗議(こうぎ)という社会正義の問題とが結び付いたリアリズム小説として、大きな反響(はんきょう)をよび、藤村の作家的地位を確立(かくりつ)するとともに、日本の自然主義文学の出発点となった。「告白」できる人は「誠実な人」?•妻を失い、子供を抱えていた藤村は、家事を助けに来ていた姪こまこと肉体(にくたい)関係を持ってしまう。こまことの関係にけじめをつけられない藤村は、告白小説「新生」を書き、社会に自らを暴(あば)くことで、この関係を強引(ごういん)に清算(せいさん)してしまう。こま子は日本にいられなくなり、台湾(たいわん)に行くことに。告白したことの誠実(せいじつ)さを評価する人がいる一方で、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)は「新生」の主人公を老獪(ろうかい)な偽善者(ぎぜんしゃ)と批判している。若菜集(わかなしゅう)と夜明け前•「若菜集」•恋愛の喜び、漂泊(ひょうはく)への思いなどを詠んだロマン的な抒情詩集(じょじょうししゅう)。•「夜明け前」•父をモデルとする青山半蔵(はんぞう)の悲劇(ひげき)的な生涯(しょうがい)を中心に日本の「夜明け前」の苦しみを描いた歴史小説。•まだあげ初(そ)めし前髪の•林檎(りんご)のもとに見えしとき•前にさしたる花櫛(はなぐし)の•花ある君と思ひけり初恋(はつこい)•いつも君と会う約束をしている林檎の木に行ってみると、髪を結い上げたばかりの君の姿が見えた。昨日までとは見違えるような大人になった君は、前髪に花櫛を挿していた。僕は君の髪に花が咲いたように思うほどだった。田山花袋(たやまかたい)•1872年-1930年。日本の小説家。本名、録弥(ろくや)。群馬(ぐんま)県(当時は栃木(とちぎ)県)生れ。•尾崎紅葉のもとで修行(しゅぎょう)したが、後(のち)に国木田独歩、柳田國男(やなぎたくにお)らと交(まじ)わる。『蒲団(ふとん)』『田舎教師』などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。紀行文(きこうぶん旅行记)にも優れたものがある。布団(ふとん)•花袋に師事(しじ)していた弟子の岡田美知代(おかだみちよ)とのかかわりをもとに描いた小説。日本における自然主義文学、また私小説の出発点に位置する作品で、末尾(まつび)において主人公が女弟(おんなでし)の使っていた蒲団の匂いをかぐ場面など、性を露悪的(ろあくてき)にまで描き出した内容が当時の文壇とジャーナリズム(报界)に大きな反響を巻き起こした。•34歳くらいで、妻と2人の子供のある作家の竹中時雄(たけなかときお)のもとに、横山芳子(よしこ)という女学生(じょがくせい)が弟子入りを志願(しがん)してくる。始めは気の進まなかった時雄であったが、芳子と手紙をやりとりするうちにその将来性を見込み、師弟(師弟)関係を結び芳子は上京(じょうきょう)してくる。時雄と芳子の関係ははたから見ると仲のよい男女であったが、芳子の恋人である田中秀夫(ひでお)も芳子を追って上京してくる。•時雄は監視(かんし)するために芳子を自らの家の2階に住まわせることにする。だが芳子と秀夫の仲は時雄の想像以上に進んでいて、怒った時雄は芳子を破門(はもん)し父親と共に帰らせる。そして時雄は芳子のいない空虚感(くうきょかん)のために、芳子が寝ていた蒲団に顔をうずめ、泣くのであった。国木田独歩(くにきだどっぽ)•(1871―1908)•詩人、小説家、ジャーナリスト、編集者。明治4年7月15日、千葉(ちば)県銚子(ちょうし)生まれ。広島(ひろしま)県広島市、山口(やまぐち)県育ち。•「武蔵野(むさしの)」「牛肉と馬鈴薯(ばれいしょ)」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸(きど)」などで自然主義文学の先駆(せんく)とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報(ふじんがほう)』の創刊者であり、編集者としての手腕(しゅわん)も評価されている。肺病で死んだ。主な作品•1896年の9月から渋谷に住み、このころツルゲーネフに親しみ、『武蔵野(むさしの)』を構想(こうそう)する。1897年4月、田山花袋(かたい)、太田玉茗(ぎょくめい)、松岡国男(くにお)、柳田国男(やなぎたくにお)らとの共著(きょうちょ)詩集『抒情詩(じょじょうし)』に、「山林に自由存す」を含む『独歩吟(どっぽぎん)』を発表。•処女小説『源叔父(げんおじ)』《源老头儿》(1897)を発表。1898年『今の武蔵野』『忘れえぬ人々』など浪漫(ろうまん)的な作品を発表。1901年(明治34)これらを収めた『武蔵野』を出版する。『牛肉と馬鈴薯(じゃがいも)』(1901)、『運命論者』(1903)、『春の鳥』(1904)など、主として現実性を追究しようとする作品を発表。これらは『独歩集』(1905)、『運命』(1906)として刊行。のちに、自然主義の作品として高く評価された。とくに『運命』は独歩の文壇的声価(せいか)を高めた。過労のため健康も優れぬなかで、『窮死(きゅうし)』(1907)、『竹の木戸(きど)』《竹栅门》(1908)などの現実を凝視(ぎょうし)した佳作を発表。六、耽美派(耽美主義)•1、永井荷風(ながいかふう)•2、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)•耽美主義(たんびしゅぎ、唯美主義・審美主義とも)は、道徳功利性を廃して美の享受(きょうじゅ)・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮である。これを是とする風潮は19世紀後半、フランス・イギリスを中心に起こり、生活を芸術化して官能の享楽を求めた。1860年頃に始まり、作品の価値はそれに込められた思想やメッセージではなく、形態と色彩の美にある、とする立場である。永井荷風(ながいかふう)•(1879―1959)•小説家、随筆(ずいひつ)家、劇作家。明治12年12月4日東京に生まれる。本名壮吉(そうきち)。別号(べつごう)に断腸亭(だんちようてい)主人、金阜(きんぷ)山人など。6歳のときの永井荷風永井荷風の代表作•広津柳浪(ひろつりゅうろう)に師事、ゾラの影響を受けて「地獄の花」を発表。アメリカ・フランス遊学後、「あめりか物語」「ふらんす物語」や「すみだ川」などを執筆、耽美派の中心的存在となる。のち、「腕くらべ」などで花柳(かりゅう)界の風俗を描いた。文化勲章受章。他に「東綺譚(とうきだん)」「つゆのあとさき」、訳詩集(やくししゅう)「珊瑚集(さんごしゅう)」、日記「断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)」など谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)•1886年-1965年•日本の小説家。明治末期(まっき)から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期(いちじき)を除き終生(しゅうせい)旺盛(おうせい)な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。『痴人(ちじん)の愛』『刺青(しせい)』『春琴抄(しゅんきんしょう)』『細雪(ささめゆき)』など、情痴(じょうち)や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と文体や思想における芸術性を高いレベルで融和(ゆうごう)させた純文学の秀作によって世評(せひょう)高く、「文豪(ぶんごう)」「大谷崎(おおたにざき)」と称された。刺青(しせい)•刺青」(しせい)は、日本の作家谷崎潤一郎の短編小説。1910年(明治43年)11月、『新思潮(しんしちょう)』にて発表。谷崎潤一郎の処女作•「世の中が今のように激しく軋(きし)みあわない時分」、多くの人々が刺青をしてその意匠(いしょう)を比べ合っていた中に、清吉(きよきち)という、元浮世絵(风俗画)職人(もとうきよえしょくにん)の彫り師(ほりし)がいた。清吉は美女の体に己(おのれ)の魂(たましい)を彫り込みたいという宿願(しゅくがん)を持っていたが、満足する女を見つけられずに過ごしていた。そんな中、駕籠(かご轿子)の簾(すだれ帘子)から女の足がこぼれているのを見て、清吉はこれぞ自分の求めていた女だと確信したのだった。中編小説「春琴抄(しゅんきんしょう)」•谷崎潤一郎の中編小説。1933年6月『中央公論』に発表。大阪道修町(どしょうまち)の薬種商(やくしゅしょう)鵙(もず)屋の娘琴(こと)は、幼時に失明し、以後琴三絃(さんげん)に生きる。四つ年上の奉公人(ほうこうにん)の佐助(さすけ)に付き添われて(护送)師匠(ししょう)のもとに通い、やがて門下随一(もんかずいいち)となり、春琴と名のる。春琴は驕慢(きょうまん)な盲目(もうもく)の美女だが、彼女を敬慕(けいぼ)し音曲(おんぎょく)の弟子にもなって献身的に仕(つか)える佐助の子を生む。しかし、夫婦の関係になっても、あくまで奉公人で門弟の位置を崩さない。圧巻は、ある夜何者かのために、春琴がその顔面(がんめん)に熱湯(ねっとう)を浴びせられるや、それを見まいとして、佐助が両眼(りょうがん)を針で突いて自ら盲目となり、師弟相擁(あいよう)して泣く場面で、以後、春琴は佐助のうちに永遠の美女として生きることになる。ここに『刺青(しせい)』以来の谷崎文学の、マゾヒズム(被虐待狂)による女性拝跪(はいき)の極致(きょうち)がみられよう。紹介(中国語)•是一部典型地表现作家风格的名作,发表后引起巨大反响。仆人出身的佐助尽管身心都受尽孤傲乖僻的盲女琴师春琴的折磨,却依然对她忠贞不二。在春琴被毁容之后,佐助为了在自己的脑海里永驻她的美艳姿容,并能与她生活在一起,竟用针刺瞎了自己的双眼。春琴与佐助的主仆、师徒、夫妻等错综复杂的关系,为这种奇异的不可理喻的情爱行为提供了合理性,将感官体验与精神体验的结合扩展到最大化,并通过感觉器官的转换完成了比感官享受更高层次的心灵审美过程。佐助闭上了现实之眼,但他的心灵之眼却永远睁开,从而进入永劫不变的观念世界,达
本文标题:日本近代文学史2
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