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+日本战后的化妆文化的演变及其原因+为什么选择研究化妆文化日本是一个化妆大国:二战以来,作为全球五大经济体之一的日本,在化妆品的生产和消费上都常年稳居全球第二。在日本街头,几乎所有女性,以及一部分男性,面部都是有一定妆容的。化妆这一行为在日本的高普及度有经济、文化、社会心理等多方面的原因,化妆文化演变背后的历史动因值得我们深入挖掘。+相关研究中方研究:《日本人为什么化妆》《日本化妆心理研究的动向》《时代的镜子日本彩妆文化之变迁》日方研究《从化妆看日本文化》各大“化妆文化研究所”所撰写的报告+大正时代之前日本的化妆文化第1回化粧のはじまり第2回日本独自の化粧文化へ~たおやかで優美な宮廷女性のよそおい~第3回動乱の時代にも人々に継承されていた化粧文化第4回もっとも古い日本の伝統化粧~お歯黒~第5回黒い歯から白い歯へ~江戸から明治期のお歯黒事情~第6回豊かな庶民文化とともに花開いたよそおい~江戸前期~第7回江戸時代、おしゃれ文化の最盛期~江戸中期から後期~第8回化粧も髪型もモダンに。現代に続くよそおいの第一歩~幕末から明治時代~第9回欧米文化に刺激をうけながら変わるよそおい~明治時代中期から後期~第10回活動的な女性たちが求めたよそおい~大正時代~第11回自由なヘアスタイルのはじまり~大正時代-髪型編~現代に通じるメークが登場した飛鳥時代~それでは現代のような“おしゃれ”を意識したメークは、いつごろから始まったのでしょうか。最も古く確認できるのは飛鳥時代、6世紀後半のこと。仏教が伝来し、聖徳太子が誕生した頃になります。大陸では隋が中国を統一し、日本からは遣隋使(けんずいし)が派遣されていました。そんな中、大陸から紅や白粉(おしろい)、香といった化粧品が輸入され、日本におけるメークが始まったとみられています。右)「鳥毛立女屏風」第四扇(部分)/正倉院蔵唐風のファッションと化粧を施している。当時の白粉は鉛を酢で蒸して作られていたといいます。この時期、日本でも初めて鉛を使った白粉(鉛白粉)が作られ、女帝である持統天皇が献上された鉛白粉を大変喜んだと『日本書紀』に記されています。(右)「鳥毛立女屏風」第四扇(部分拡大)/正倉院蔵額中央に花鈿(かでん)、口元によう鈿(ようでん)と呼ばれる特徴的なポイントメークが描かれている。~宮廷女性のメークは、唐の国がお手本~その当時、宮廷の女官は顔に白粉を塗り、紅を使ったポイントメークをしていたと見られます。正倉院に伝わる奈良時代中期、日本で描かれた「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」の女性像を見ると、宮廷女性のメークの片鱗を感じることができます。この屏風には、唐風の女性が樹の下に立っている姿が描かれています。女性は顔に白粉を塗り、太く眉を描き、紅を使ってふっくらとした唇を描いています。額中央には“花鈿”(かでん)、口元には“よう鈿”(ようでん)と呼ばれる、カラフルな色で花や星を描く化粧が施されているのが特徴的です。同じ絵柄が中国の敦煌(とんこう)の壁画にもあることからも唐のメーク法が日本にも伝わっていたことがわかります。当時の宮廷の生活様式は、唐の様式を取り入れており、女性が追い求めた「美」も海外の文化を手本にしたものであったといえます。大陸の影響からスタートした日本の化粧文化。日本独自の化粧が花開いたのは、平安時代に入ってからのことでした。日本独自の化粧文化へ~たおやかで優美な宮廷女性のよそおい~平安時代、9世紀末に遣唐使が廃止されたことから、それまで唐の影響を強く受けていた日本文化に、変化のきざしが現れます。紀貫之が『古今和歌集』を編纂し、また、『土佐日記』を記したりするなど、特権階級である貴族の宮廷生活において、日本独自の文化が育まれていくのです。ファッションや髪型、メークといったよそおいも例外ではなく、華やかな唐風のものから、優美な日本独自のものへと変化していきます。宮廷の女性が生活する大きな屋敷の中は、昼間も薄暗く、夜は月明かりとロウソクといった現代と比べるとほとんど真っ暗といってもいいほどの環境で生活をしていました。さらに、外出するときには常に顔を覆い隠すなど、他人に顔を見せないことが好ましいとされていたのです。このような環境と美意識が宮廷での特徴的なよそおいの文化を形作っていきました。何枚もの美しい衣を重ねた十二単に長く伸ばした黒髪、これが宮廷女性にとってこの上ない「美」の象徴でした。こうしたボリュームのあるよそおいに映えるのが顔を白く塗って強調するメークです。顔には白粉、眉は生来の眉を抜いて額の上部に描き、唇はより小さく見えるように描きます。平安時代を代表する文学作品『源氏物語』を絵巻にした『源氏物語絵巻』には、このような優美な女性像が描かれています。~化粧は年齢や身分をあらわす“約束事”おしゃれの楽しみは「香り」で~しかし、平安時代の宮廷のよそおいは、特定の環境や美意識だけから作られたのではありません。例えば『源氏物語』の主人公、光源氏の娘となる若紫は、10歳で成人の証として眉化粧やお歯黒をしています。当時は年齢や身分、階級による約束事として、よそおいや化粧法が決められており、現代のように自分らしさや個性を表現するおしゃれのあり方とは全く意識が異なるものだったのです。現代とは異なり、ファッションや髪型、メークで個性を表現することができなかった当時の女性たちにとって、唯一自由に楽しめたおしゃれが「香り」です。自分のお気に入りの香を焚き染めた衣や、香りのついた和歌(手紙)のやり取りを通してアピールすることが、もしかしたら彼女たちの大切な自己表現だったのかもしれません。~動乱の時代にも人々に継承されていた化粧文化~貴族社会から武家社会へ12世紀頃、日本ではそれまで権力を握っていた貴族だけでなく、武力を備えた地方の豪族、いわゆる武士が台頭してきます。源氏や平氏が勢力を広げ繁栄したのもこの時代になります。貴族社会から武家社会への転換期、女性のよそおいにも変化が訪れます。衣服の簡略化が進み、長い髪は後ろに緩く束ね、化粧も顔の白粉は薄くなり、眉化粧、紅、お歯黒を施す。衣服も髪型も化粧も軽く、活動的によそおった武家の女性が登場しました。女性たちのよそおいは、社会の動向と結びついて変化し、一般庶民にまでその影響が及んだ室町時代へと受け継がれていきます。今に伝わる北條政子の化粧箱写真の「梅蒔絵手箱」は、源平の戦いに勝ち、後に鎌倉幕府を開く源頼朝の妻、北条政子のものとされている化粧箱です。ここには鏡、鏡箱、白粉箱、歯黒箱、薫物(たきもの)箱、螺鈿(らでん)櫛、紅筆、鋏(はさみ)などの化粧道具が約30点あまりが収められています。北条政子といえば頼朝の死後、政治的権力を握り、強くたくましい女性として伝えられています。現代に肖像画は残されていませんが、化粧箱からは彼女が白粉や紅、眉化粧といった化粧をし、髪を整え、身だしなみに気をつかっていたことが想像できます。お歯黒ってどんなお化粧?わたしたち現代人にとって、「真っ白に輝く歯」は美の象徴ですが、実は明治時代はじめの頃までの日本では、歯を真っ黒に染める化粧、「お歯黒」が美しいとされていました。お歯黒は、鉄漿(かね)とも表されましたが、その理由は鉄漿水と五倍子粉(ふしのこ)を歯に交互につけることで歯を黒く染めたからです。鉄漿水とは、酢の中に酒、米のとぎ汁、折れた釘などの鉄を溶かして作った茶褐色の液体で、たいへん悪臭がしたといいます。一方、五倍子粉は、ヌルデ(ウルシ科の落葉小高木)にできる虫瘤(むしこぶ)を採取し、乾燥させて粉にしたものでタンニンを多く含んでいます。鉄漿水の酢酸第一鉄と、五倍子粉のタンニン酸が結合することで黒く染まる仕組みでした。ちなみにお歯黒には、歯を強くし、虫歯や歯周病の予防にもなるといった実用的な効果もありました。平安女性にとってのお歯黒平安時代の『源氏物語絵巻』などをみると、黒髪と白い肌のコントラストの美しさと、ふっくらとした顔に細い目、小さな口元が美しいとされていたことがわかります。歯を黒く染めることで歯の存在を消すお歯黒は、小さな口元を強調するために行われていた化粧なのです。また、この時代のお歯黒は、成人への通過儀礼でもありました。さらに室町時代になるとお歯黒は一般にも広がり、戦国時代には政略結婚を背景として、10歳前後の武将の息女に成人の印としてお歯黒が行われました。こうしたことから、お歯黒は時代とともに既婚女性の象徴になっていったと考えられます。豊かな庶民文化とともに花開いたよそおい~江戸前期~武士階級から町人の時代へ江戸時代には商工業が飛躍的に発達し、大阪や京都、江戸といった都市部の人々の生活が向上しました。豪商とよばれる大商人が富を築いていき、同時に文化を担う主役もそれまで権力を握っていた武士階級から町人へと移り変わっていきました。花見や相撲、歌舞伎見物といった文化が生まれ、やがて江戸町人の文化として定着していきました。ハレの日に精一杯のおしゃれをして、そうした場所に繰り出すのが当時の人々の一番の楽しみだったのでしょう。化粧に目覚めた女性たち平和が訪れたこの時代、化粧は一般庶民にも爆発的に広がっていきました。元禄時代には、豪華な髪型と衣装とのバランスから、濃い目の化粧が流行していたようです。それを象徴するのが白粉化粧です。白粉は水で溶き、顔だけではなく、首や襟足、肩、胸元の辺りまで刷毛を使って丹念に塗るのが常識とされていました。これを何度も塗り重ねていると、濃い化粧が完成します。しかし、当時の女性の身だしなみについて指南している文献『女用訓蒙図彙』/元禄7年(1694年)には「生地黒きに化粧の濃は軽粉肌に沈まぬゆへに、底厳なく、やがてのうちにはげおつるなり。かやうの顔は底から拭ひたてて、なる程細なるおしろいを、うすうすとあるべし」(黒い肌に、化粧を濃くすることは、白粉が肌になじまず、つやもなくなり、時間がたつと、はげてくるのでよくない。こういう肌には、白粉を薄くつけるのがよい)と書かれています。また、『西鶴織留』/元禄7年(1694年)にも「素顔でさえ白きに、御所白粉を寒の水でとき、二百へんも摺りつけ・・・」(素肌でさえも白いのに、水で溶いた白粉を二百回もすりつけ・・・)という記述があります。濃い化粧は下品だと考えられ、薄化粧が好ましいとされていたことがわかります。この時期、京都や大阪を中心によそおいの文化が栄え、髪型からファッション、化粧まで何より華やかさを重視したものが流行しました。白粉をしっかりと塗り、紅や眉化粧を施すメークが定着していたのでしょう。次回は、江戸時代中期、その時代背景とよそおいをご紹介します。江戸を中心に栄えた町人文化江戸時代の中頃になると、街道や港といったインフラが整い、交通網が発達します。人や物、お金が行き来することにより、城下町や宿場町が栄え、都市へと発展していきました。特に江戸は、中期には人口が100万人を超える大都市へと変貌を遂げていました。そして、経済的に豊かになった町人たちによる新しい文化が誕生しました。次第に華やかさを極めていく町人階級の消費に対し、徳川幕府からは、たびたび贅沢を禁止する「奢侈禁止令」が発令されます。そうした中、江戸後期に入ると幕府の抑圧に対する反発から、粋で円熟した文化が育まれていきます。それは単に華やかさや贅沢さを追求するだけではない、こだわりを持った工夫を凝らした文化でした。文学では、世相を皮肉った狂歌や川柳、人情を描いた読本、独特の笑いをもたらす滑稽本など、さまざまなジャンルが登場。よそおいにもその気風は現れ、ただ豪華であるおしゃれから、すっきりと垢抜けたおしゃれが支持されるようになります。それは財力のある町人だけではなく、さまざまな階級の人々に広がっていきました。また当時、流行の発信地として独特な文化を育んでいたのが「遊郭」です。遊郭に通う人もまた粋な町人たちでしたが、人々の注目は「花魁」と呼ばれる最高位の遊女たちに集まります。ファッシ
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