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1市営今宮住宅と戦災復興作成:釜ヶ崎資料センター上の写真は、昔の西成労働福祉センターの屋上からのパノラマ写真です。長くセンターにおられた上畑さんが、1969年か70年に撮影されたもの。下の地図は、写真が撮影された当時の地図です。「西入船町」の町名表記の右側に「愛隣綜合センター(工事中)」とあります。尼崎平野線の拡幅工事は工事中のセンター前を東に越えたあたりまで進んでいます。現在の市営萩之茶屋第2住宅と自彊館三徳寮部分にまたがって「西成労働福祉センター」があり、その東隣に「今宮市営住宅」とあります。「市営今宮住宅」は、東入船町22に所在。1929(昭和4)年建設で78戸、中層耐火構造。70年当時家賃150~360円と記録されています(大阪市営住宅一覧。1971年版には今宮住宅の記載はありません)。昭和初期に建てられた、日東町や下寺町の市営住宅と同じ外市営今宮住宅現在:夜間宿所西成労働福祉センター現在:自彊館三徳寮萩之茶屋小学校2観・構造で、それらの住宅同様、戦災を免れた建物ということです。釜ヶ崎は戦災で丸焼けといっても、全ての建造物が焼失したのではなく、耐火構造の建物などは残ったということの証し。地図右側、「山王町二丁目」の下に、「市設山王住宅」(山王町2-60)とあります。これは1946(昭和21)年に建設されたもので91戸。家賃140~200円。木造の共同住宅。左の写真は、昭和10年に建てられた聖心セツルメント(愛徳姉妹会)。場所は、海道町36番1。右は、昭和20年3月13日空襲で焼失した聖心セツルメントの焼け跡。現在は、西成警察裏の公園の一部になっています。戦災復興土地区画整理事業の完了した街区が桃色囲み、整理前の道と思われるところを、青色で示してみました。図に線が多く、道か補助線かの区別が難しく、あて推量ですから正確ではありません。焼け跡の写真の場所は特定できますが、北を向いて写したのか南を向いて写したのかはっきりしません。西向きなら背景に南海線が、東なら西成署が写っているはずなのですが。整理計画では、萩之茶屋工区内に寺院教会地は295坪ありましたが、整理後は206.5坪と、88.5坪減少見込みとなっていました。田-1坪、畑-3,178坪、原野737坪が3あったようですが(実際に田畑であったのか、地目上の分類だけで実態は家屋が建っていたのかは不明)、整理後にはこれらは0となる計画でした。終了までに561戸が移転しました。整理の結果、道路は整理前の25,455㎡(工区面積の8.9%)が、81,813㎡(工区面積の28.5%)に増加し、宅地は工区面積の91.1%であったものが67.8%へと減少。公園はゼロから、工区面積の3.6%となっています。甲岸町はもともお寺や学校があり、居住面積が多くなかったのと戦災の被害が大きかった影響で、人口の増加が他地区よりも遅かったと思われます。東西入舟町で1965年に落ち込みがありますが、この時期はちょうど池田内閣時代(1960年7月~1964年11月)で、公共事業の増大・全国総合開発計画による地域振興策などの影響により、移動性の高い労働者の各地工事現場への移動があったのではなかろうかと考えられます。昭和40年は不況の年ですが、東西入船以外には大きな落ち込みは見られず、「不況-仕事の減少-一時的な帰省」のあらわれとも考えられます。区画整理による立ち退きの影響も考えられますが、確認はできていません。1965年以降は1970年の万博準備で人集めが本格化します。1952(昭和27)年に釜ヶ崎に来た人によれば、銀座通りは今の半分くらいの道幅しかなく、バラックが建ち並んでいたといいます。銀座通りの入り口付近には誰が据えたか判らない拡声器から歌謡曲が流されていたそうです。昭和29年から2~3年間は確実に聞いた記憶があると。昭和33年から35年の3年間、まだただの空き地であった現三角公園で、リクノがしきった盆踊りがありました。「盆踊りには、呉越同舟、社会党N国会議員寄贈の提灯が、手配師、自民党のそれと肩をならべる。(仲村祥一・思想の科学・1961年)」盛大なものだったようです。それまで盆踊りといえば江州音頭でしたが、その頃から鉄砲光三郎の河内音頭鉄砲節が流行りだし、目新しさと軽快さに、踊る人ばかりでなく周辺に座って聞き入る人も多く、黒山の人だかりだったといいます。1946~58年1959~63年1964~69年1970~75年1976~80年1981~88年1989年以降21~33年度34~38年度39~44年度45~50年度51~55年度56~63年度平成元年以降合計133戸101戸93戸146戸22戸62戸4戸561戸萩之茶屋工区移転戸数推移銀座通り拡張に伴うものが中心か?センター周辺・東四条が中心か?萩之茶屋3丁目南海本線東側が中心か?人員推移05001,0001,5002,0002,5003,0003,5004,0004,5001950年1955年1960年1965年1970年東萩町海道町甲岸町東入船町西入船町4今宮住宅の北や東はまだ「ドヤ」もちらほらの状態で、西側には空き地があり、今のセンターに珍々堂の露店のオカキ干し場のほか南海電車高架周辺のバラックや一戸建ての家が建て込んでいたそうです。昭和26年発行の「西成区政誌」所収の地図には、公園予定地が4個所記されており、現センターの南部分は公園予定地であったことが分かります。第一次釜ヶ崎暴動によって、区画整理事業の当初計画も変更されていることがわかります。1960(昭和35)年朝日新聞に、柴田俊治記者による「大阪のどん底―“釜ヶ崎”に住んでみて」という連載記事があります。そのリード文に、『「岩戸景気」であり、「繁栄の年」だという。―略―生活保護を受けているか、あるいは受けなければやっていけない困窮家庭は全国で169万世帯にのぼるという(34年版国民生活白書)。全世帯の8.1%が、食うや食わず、ツナ渡りのようなその日暮らしをしているのである。いつ首を切られるかわからない臨時工、下請工、大資本や親会社に押される零細企業、家内労働、不況のヤマ(補注:炭坑)、土地のない農民、不漁にあえぐ漁民、厳しい自5然に打ちひしがれる辺地の人々、そして仕事を求めて、日々都会へ流れ込む反失業者たち・・・・・ぶあつい層の底辺が日本にどっしり腰をおろしている。そこには明るい光もさしこまず、人間らしい生活もない。あるものは貧乏、失業、病気、不幸、犯罪、暴力・・・暗い、すべてが暗い。今の繁栄がこうした基盤の上になりたっているとすれば、私たちはこの“どん底”に目をおおってはならないだろう。記者は歴史的に名のたかい南大阪のスラム「釜ヶ崎」に二十日ばかり暮らした。貧しい人びととともに私のみたのは、好奇な生活ではなかった。やっぱり現代の政治の手のとどかなさが、社会のゆがみが、人の世の無情が、この小さな都市の谷間に一挙に集中している姿だった。ありのままに報告しよう――。』とあります。連載1回目に掲載された略地図から見ると、「ドヤ街」の中心が海道町であると想像されます。柴田記者により、当時の街の様子を見ることにします。『南海電車の萩の茶屋駅をすぎるとガードのすぐ東側。市電の霞町から行けば釜ヶ崎の“立ちんぼ通り”を南へ、西成警察署の前をちょっと通り過ぎると南海天王寺線の踏切の西側に小さな公園がある。この公園と南海本線のガードの間、ここに―“職安横丁”はある。まん中に通称西成職安、お役所流にいえば「大阪府阿倍野公共職業安定所西成労働出張所」。―表門の前がメーンストリート。そのまわり、勝手気ままに建ったドヤ、日払いアパート。くねくね曲がってはくっつく路地に群がるめし屋、古物屋、競輪のノミ屋。ドヤの泊まり賃がまず50円。30円しか残らなかったらどうする?「ドヤ銭にもならん、バクダンや」と飲むのである。屋台の前にごろごろ寝転がりだした。公園では拾い屋が手押し車の中にはい込んで眠る。この寒夜にアオカン(野宿)は酔いつぶれでもしないとムリだ。ふらふらと地下鉄の動物園前へいくと、シャッターが閉まって、その前のわずかな軒端ももう満員である。午前6時45分、西成職安の紹介が始まる。空はまだ暗い。ここに登録している日雇労務者は、男4,300人、女700人。「直行」といって直接きまった工場や作業場に行くのもあって、毎朝集まるのはざっと4,000人。場ちがいに大きな照明灯が、群がる労務者たちの防寒帽を浮かび上がらせる。―“民間”(失業対策事業とは別に工場や作業場から求める日雇)の紹介場は人間のセリ市だ。「××建設、500円」係員が壇上で求人先と賃金を読みあげる。その下につめかけた人たちは、証券取引所の場立ち人みたいに、ホイ、ホイと登録カードを差し上げる。係員は手近なところから、ひょい、ひょいとカードをつまむ。これでその日の仕事が決まるのである。「つぎ!○○運輸、450円」つまみ上げられなかったら、最後に、仕事がきつく賃金は安くて、希望者の少ない“ケタ落ち”の仕事にでも行かねばならない。―6Sさんは“出戻り”である。二年前、知人の口ききでアンコの足をすっぱり洗って石ケン工場へ入った。月給7,500円。収入はそう変わらないが、夢に見た“定職”である。半年働いた。昇給はない。将来の見込みもない。失対なら曲がりなりに健康保険も失業保険もある。仕事はラクだ。これなら日雇いの方がいいじゃないか・・・・また舞い戻ってきた。こうした“出戻り”は多い。就職の話はあるのだが月給をもらうまでのそのひと月が暮らせないので、と力弱く笑った人がいた。一泊30円―板の間に湿った毛布が三枚。並んでゴロ寝する。50円―同じ板間のゴロ寝だが、薄っぺらいワラのマットがつく。60円から70円―カイコだなのような二段式の仕切り。せんべいブトンが上下一枚ずつ。80円から100円―二人のあい部屋。フトンは上下各一枚。交代でフロに入れる。200円―一室貸し切り。フトンが掛け二枚になる。住む人も違う。“職安横丁”の路地、50円から70円のドヤは、まず職安の日雇労務者、拾い屋、手伝い、行商人、不安定だが何がしかの職を持つ“勤労者”である。西成署の周辺から釜ヶ崎の中心部へかけて100円―200円のドヤ。なにをしているのか分からぬのが多い。売春婦とヒモ、男ショウ、ヤミの労務手配師、押し売り、マージャン屋のメンバー、ヤミタクの運転手・・・・ひる間ごろごろしている若もの、とにかく目つきが鋭い。一泊50円、安いように思う。だがひと月にすると1,500円、100円なら3,000円。世帯もちには日払いアパートというのがある。これが三畳で日に100円から150円、月にすると3,000円から4,500円、公団住宅なみの家賃になる。この地区の売春婦は推定500人。旧飛田遊郭の周辺一帯は暴力団につながる組織売春。釜ヶ崎のなかはヒモつき、または子持ちの生活のための売春。この女たちのための機関7としては、大阪市の西成簡易婦人相談所に相談員が二人いるきり。―この窓口を通るケースをじっとみると、おぼろげながら二つの柱が浮かんでくる。一つはやっぱり未解放部落、もう一つは地方の小さな紡績・織物工場。中学を出ても大きな会社へ就職できない部落の子は、食堂やパチンコ屋を転々とする・・・・。紡績業界では、十大紡などはどうしても成績やからだのいい子を選ぶので、地方の零細工場がとり残された貧しい子を集める。安い賃金、深夜労働。いやになって食堂、パチンコ屋・・・・。二つの柱は合流する。こうして売春予備軍がプールされる。フロしき包み一つ持って大阪駅や天王寺公園へ。ハンコで押したようなコースがケース簿に並んでいる。もうじき春だが、春さきには天王寺公園へ毎日2~3人はくるのだから、警察に保護されるより暴力団のアミにかかる方が早い。警察の調書には「都会にあこがれて・・・」なぜ彼女たちは都会にあこがれるようになったのだろうか。“堤防の破れ”はこの辺にあるようだ。職安横丁の路地あたり、ゴミ箱を横にしてベッタンを
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