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教育・文化ふくい創造会議(第三次会議:第3回)資料2福井県の芸術文化分野における歴史的観点から見た特徴的事項追補版(頁)美術………………………………………………1*福井県出身・ゆかりの著名な美術作家・運動家等(追記)工芸(追記)………………………………………4書道………………………………………………5*福井県出身の全国規模で活躍する書道家(追記)洋楽合唱……………………………………………7吹奏楽部門……………………………………………8室内楽・管弦楽部門…………………………………9邦楽………………………………………………11*福井県出身・ゆかりの著名な音楽家(追記)演劇………………………………………………13文学詩………………………………………………………14俳句…………………………………………………14短歌…………………………………………………15川柳…………………………………………………15*福井県で行われている主要な文学コンクール(追記)*福井県出身の文学者等にちなんだ取組み*福井県出身の近代以降活躍の著名な文学者(追記)茶道・華道………………………………………………22(追記)映画………………………………………………24(追記)*福井県出身・ゆかりの著名な映画監督等(追記)漫画・アニメーション…………………………………26(追記)福井における若者の文化活動について………………27(追記)*福井県内大学における文化部・文化サークル活動と所属人数(追記)-1-【美術】大正期から昭和50年代にかけての約60年間活動した「北荘・北美」(北荘画会ほくそうがかい・北美文化ほくびぶんか協会きょうかい)の美術運動がある。美術界の本流とは異なるフィールドでの新しい表現形態を持った作品が生み出された「北荘・北美」の運動は、地方における特異な美術運動として今も評価されている。特に、初期の「北荘」からは、福井の洋画黎明期において重要な役割を果たした作家が多く輩出され、昭和23年(1948年)以降の「北美」からは、既成の表現にとらわれない個性的な作品が生み出されるとともに、若狭を拠点とする「若美」(若美じゃくび作家さっか協会きょうかい)の美術運動も生まれた。◆北荘画会・北荘画会は、大正11年(1922年)、大正期新興美術運動の中心人物であった木下きのした秀しゅう一郎いちろうの未来派論に賛同するかたちで、福井の土岡つちおか秀太郎ひでたろうを中心に堀田ほった清せい治じらによって北荘画会が結成された。・その後、北荘は、フォービズムや海外超現実主義の作品展を開催し、シュールレアリズム(超現実主義)をいち早く紹介。若い世代に衝撃を与え、前衛精神が受け継がれていったが、昭和12年(1937年)に活動を終える。※未来派・・・・・・・・・20世紀初頭、イタリアを中心に起こった前衛芸術運動。近代文明の産物や機械の登場によって生まれた新たな視点を芸術に取り入れようとした。※フォービズム・・・・野獣主義;原色による強烈な色彩や激しいタッチを特徴とする。◆北美文化協会・戦後、北荘画会の伝統を受け継いで、昭和23年(1948年)に北美文化協会が設立された。設立会員は木き水みず育男いくおら教育関係者が多く、創造美育運動と呼ばれる児童画教育運動を推進した。北美主催の夏期講習会には、阿部展也あべのぶやや岡本おかもと太郎たろう等の日本の現代美術を切り開く作家とともに、毎回新鋭の美術評論家も招かれ、単に実技の講習だけでなく、広く現代美術の諸問題が討議され、これを通じて多角的に現代美術の動向をとらえることができた。・こうした活動を経て、個性的作品を生み出す作家を多く輩出する。八田はった豊ゆたか、橿かし尾お正まさ次じ、山本やまもと圭けい吾ご、五十嵐いがらし彰あき雄おらが個を貪欲に追及し、独自性のある表現を獲得し、全国的あるいは世界的にも評価される現代アート作家となり、現在も活躍している。◆若美・また、昭和50年、「北美」の美術運動に参加した長谷光城ながたにみつしろの呼びかけにより、松宮喜代まつみやきよ勝かつらが参画して若狭を活動拠点とする「若美」が結成され、新しく開かれた美術活動の確立を基本に、グループ展や美術講座、学習会等の活動を積極的に行い、マスコミ等でも高く評価された。このように、近・現代における福井の美術を語る上で、「北荘画会」や「北美文化協会」の運動や、これから派生した「若美」の歴史的意義は極めて大きく、特に、「北荘・北美」の運動は、県内外で活躍する美術作家たちにも様々なかたちでその影響を見ることができ、その運動思想は現在も綿々と受け継がれているといえる。◆美術の活動者人口・本県の美術分野の活動者は、中学校・高校の部活動参加者が1,700人余り、趣味的活動者も含めた大学生以上の活動者が約1,200人程度で、合わせてほぼ2,900人余りである。・社会人としての活動は、時間的余裕があることが前提となるので、退職者や子育てが一段落した主婦などが多く、高齢化がやや進展している。-2-本県出身・ゆかりの著名な美術作家・運動家等(追記)○岡倉天心おかくらてんしん(美術家、美術史家、美術評論家、美術指導者。本名覚三かくぞう;1863―1913)越前福井藩の出身で、横浜で貿易商を営む岡村勘右ェ門の次男として出生東京開成所(現・東京大学)に入所し、英語が得意だったことから同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、日本美術研究を手伝ったことが天心の生涯を方向付けた。大学卒業と同時に文部省に入省。フェノロサ等とともに東京美術学校(東京藝術大学)設立に尽力。明治23年、同校校長となり、横山大観、下村観山、菱田春草らの画学生に大きな影響を与え、明治31年、大観、観山、春草らと日本美術院を創設し、近代日本画の創造を目指す活動を行った。東京都台東区に岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)がある。○鈴木千久馬すずきちくま(洋画家。福井市出身;1894―1980)東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画を卒業後、帝展、文展、日展など官展系作家として活躍。昭和31年の日展出品作で、翌年、日本芸術院賞を受け、昭和47年には福井県初の日本芸術院会員となる。作品は、福井県立美術館、東京国立近代美術館、東京都現代美術館、目黒区美術館、山梨県立美術館、福井県立美術館、佐久市立近代美術館などが所蔵○堀田清治ほったせいじ(洋画家。福井市出身;1898-1984)旧制中学時代に油絵を描き始め、卒業後、太平洋美術研究所で学ぶために上京。その後、帰郷した際に同郷の土岡秀太郎、木下秀一郎らと北荘画会を創立し、福井の美術分野の地盤形成に尽力した。大正13年、再度上京。昭和元年には、「大樹のある風景」で念願の帝展初入選を果たした。またこの頃、恐慌の影響下に喘ぐ当時の思潮を反映したプロレタリア的な画題の作品を多く生み出した。昭和33年には、アトリエを構えた武蔵野を拠点に新槐樹社しんかいじゅしゃを創立し、後進の指導に当たった。昭和45年以降、晩年までのほぼ15年間、日本各地を旅し磨崖仏や観音像を題材に制作を続けた。作品は、福井県立美術館、武蔵野市立吉祥寺美術館、多摩市教育委員会、柏市民ギャラリー、練馬区立美術館などが所蔵○高田博厚たかだひろあつ(彫刻家。石川県出身;1900-1987)明治36年、父親の弁護士開業により福井市に移住。大正7年、福井中学卒業後に上京。油彩画を始めたが、のちに彫刻に転向。昭和6年、単身渡仏して、ジュール・ロマン、ルオー、ジャン・コクトーら多くの文化人、作家たちと交流を持ちながら、第2次世界大戦中もヨーロッパに留まり、毎日新聞社の特派員となる。戦後、読売新聞社の嘱託等をしながら彫刻の勉強を継続。昭和32年の帰国後、東京藝術大学講師などを務めたが、公職は徐々に引退し制作に専念。日仏の著名文化人をモデルにした肖像彫刻等で知られる。作品は、福井県立美術館、福井市美術館、東京国立近代美術館、東京都美術館、神奈川県立近代美術館、北海道立近代美術館、パリ・マイヨール美術館などが所蔵○小野忠弘おのただひろ(造形作家。青森県出身;1913-2001)東京美術学校(現東京藝術大学)卒業後、昭和17年、三国中学(現三国高校)に図画教師として赴任。以後、三国町に移り住んだ。-3-戦後、自由美術家協会展、日本国際美術展、個展等で個性的な作品を発表して注目され、昭和34年、サンパウロ・ビエンナーレに、翌年、ヴェネツィア・ビエンナーレに日本代表作家として招待され、国際的に高い評価を受けた。また、創作活動の一方で、人材の発掘育成にも努め、アートディレクター戸田正寿とだせいじゅなど多くの優秀な芸術家を育てた。平成17年、三国町の高台にある小野の住居兼アトリエを改修し、これに「ブルーケーキ」と称される新しいギャラリーを加えた小美術館「ONOMEMORIAL」が整備された。作品は、福井県立美術館、国立国際美術館、青森県立美術館、富山県立美術館、奈良県立美術館、大原美術館、高松市美術館、ローマ近代美術館などが所蔵○三み上かみ誠まこと(日本画家。大阪府出身;1919-1972)旧制福井中学から京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)日本画科に進む。卒業後の昭和24年、京都において、日本画の革新的研究グループ・パンリアル美術協会を結成。前衛作家として実験的な作品発表により日本画に現代美術としての新しい絵画表現の領域を開いた。福井県立美術館以外に、東京国立近代美術館、京都国立美術館、東京都現代美術館、神奈川県立美術館、栃木県立美術館、兵庫県立近代美術館、ミズーリ州セントルイス美術館等で、個展や二人展、グループ展等が頻繁に行われている。○久里洋二くりようじ(漫画家、アニメーション作家。鯖江市出身;1928―)幼少期から絵が好きで、美大進学を目指したが戦中前後の混乱の中で断念。昭和25年に上京。税務署に勤務の傍ら横山泰三よこやまたいぞうに師事して漫画家を目指す。その後、二科展での特選受賞、自費出版「久里洋二漫画集」の文芸春秋漫画賞受賞等で注目されるようになる。久里実験漫画工房を立ち上げ、実験的アニメーションを中心に独創的な作品を次々と発表。ユーモアあふれるナンセンスな作品で国内外の数々の賞を受賞。日本を代表する国際的なアニメーション作家として海外での評価も高い。○橿尾正次かしおまさじ(立体造形作家。南越前町(旧南条町出身);1933―)昭和31年、福井大学の学生のときから北美文化協会に参加。昭和41年、東京国立近代美術館の現代美術の新世代展に招待出品し、和紙の立体造形で注目された。和紙造形の先駆者として、国際ペーパーアート展(ドイツ)など国際展への出品が多く、“和紙の橿尾”として知られる。作品は、福井県立美術館、東京国立近代美術館、愛知県立美術館などが所蔵○山本圭吾やまもとけいご(ビデオ・アート作家。福井市出身;1936-)高校生の頃から北美文化協会の活動に加わり活動。福井大学在学中から二科展等に出品していたが、福井商業高校の視聴覚教室担当になった昭和43年頃からビデオを使った作品制作を開始日本国際美術展(東京都美術館)、サンパウロ・ビエンナーレなど大規模国際展でもビデオ・アートの作品を早くから発表。昭和60年、「ふくい国際ビデオ・ビエンナーレ」の開催にも尽力し,都市部ではなく出身地の福井から先進的な芸術文化を発信。その後も、光州ビエンナーレへの招待出品やヴェネチア・ビエンナーレでの日本側ディレクター就任など世界第一級の国際展等で活躍し続けている。-4-【工芸】(追記)戦後の美術工芸分野の振興発展を目的に設立された3つの主要な団体の設立と活動を中心に記載◆福井県工芸作家協会の設立・昭和16年頃、彫刻の三輪信一みわしんいちや木工の池田片銕を中心に設立された南越工趣会なんえつこうしゅかいや工人社こうじんしゃなどの南越を中心に美術工芸活動の動きがあり、百貨店や公会堂等を会場に展覧会を開催していたが、その活動はまだまだ未熟であった。・昭和27年、福井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