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37夏目漱石と日本の近代―百年後の今こんにち日に語りかけられていること―柴 田 庄 一はじめに 本日は、夏目漱石(1867–1916)と日本の近代を主テーマ題に、入門的なお話をしてみたいと思います。皆さんがたには、まだあまり馴染みがないかも知れませんが、夏目漱石は、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、『それから』や『こころ』といった人気小説の作者として広く知られており、今日においても「国語」(日本語)の教科書などに取り上げられて、日本ではもっとも高名な作家の一人です。 夏目漱石は、19世紀のちょうど世紀末に当たる、1900年(明治33年)の9月、フランスのパリ万国博が開かれた年に英国留学の途とに上のぼり、2年間にわたる欧ヨーロッパ州滞在を経験していますから、当時としては、いわばトップクラスの英文学者になることを期待されていたわけです。 彼が東京に生まれたのは、明治維新(1868年)の前の年、すなわち江戸時代の最後の年に当たる慶応3年(1867年)のことですが、この世代の人たちにはまだ数多く見られたように、幼い頃から親しんだ漢文学に優れた素養と、知識や教養がありました。 ところが、長じて後、英文学を学んでみると、漢文学と英文学とでは、同じ「文学」とはいっても、それぞれお互いがあまりにも違っているわけです。そうすると、「文学」とは、いったい何なのか。また、自分が目指そうとしている「文学」とは、そもそもどういうものなのか。そういう根本的な疑問に取り付かれてしまうわけですね、 こうして、漱石は、イギリス留学の間も、―最後の一年間は特にそうなのですが―後のちに『文学論』(明治40年)という一冊の書物にまとめられることになる、原理的な問題を実に真剣に考えるようになります。 このように、夏目漱石という作家は、何事に対しても、単に時代の波に乗って、要領よくスマートに生きていくというようなことができなかった人です。それゆえに、彼は、当時の日本全体を覆っていた「近代化」の嵐、―それは、先進国である欧米をモデルにして、なんでもかでも模倣して取り入れていけばよいのだとする、明治時代に特有の風潮のことをいいますが―、そういう「近代化」(「開化」)の波に対しても、手放しでこれを謳歌することができませんでした。 後で、もう少し立ち入って検討してみたいと思いますが、漱石は、日本の近代化を「皮相上滑りの開化」(「現代日本の開化」)であると痛罵(手厳しく批判)しています。すなわ38言語文化論集 第XXX巻 第1号ち、「日本の開化」は外からの圧力に押されて止むを得ず進めているというだけで、あまりにも外発的、表面的で「なっちゃいない」(「これではダメだ」)と苦々しく思っていたわけですね。そのことは、また、彼の文学活動そのものにもはっきり表われていると考えることができます。 つまり、夏目漱石は、留学を終えて帰国してからも、東京大学の講師や第一高等学校の教授になって、研究者としての生活を続けたわけですが、三十歳台の終わりごろになって、本来の念願であった小説創作を中心とした文筆活動に入っていきます。そして、最終的には、朝日新聞の文芸記者に迎えられ、ほとんど一年に一作といったインターバルで、力のこもった長編小説を書き継いでいくという、まことに精力的な創作活動に勤いそしむことになるのです。旺盛な創作意欲の噴出―多彩な初期作品 ところで、夏目漱石は、一般的には、日本における近代文学の大成者であると見なされていますし、また、そうした位置づけが、あながち間違っているわけでもありません。しかしながら、そう簡単に一言で済ませてしまうわけにはいかない、もっと複雑な面をももっていました。とりわけ、40歳でプロの小説家になるまでの初期作品は、その題材も文体も、実に多種多様でバラエティに富んだものでした。 たとえば、最初の長編小説であった『吾輩は猫である』(明治38年)は、そのタイトルからも予想される通り、捨て猫を、物語の語り手として設定し、猫の飼い主で、英語教師でもある「苦く沙しゃみ弥先生」を中心とした人間社会を、辛辣に、あるいはまた、ユーモラスに諷刺するという斬新なものですし、もっとも人気の高い『坊っちゃん』(明治39年)と『草枕』(明治39年)という小説も、共通項はといえば、どちらも短編であるという点くらいで、その構想もストーリーの展開も、ほとんど同じ作者の手になるものとは到底思えないほど、別個の個性を具えた作品です。 また、漱石一流の詩的想像力を、思う存分に羽ばたかせた作品集に『漾よう虚きょ集』(明治39年)と題する一冊があります。 これは、留学当時のロンドンを舞台とした短編と、『アーサー王物語』という、イギリス中世の騎士伝説に取材して、独自の作品世界を紡ぎ出した小説との、全部で七つの作品で構成されていますが、文字通り「虚に漾ただよう」幻想世界を写し取ろうとしたもので、作者漱石自身の意外なまでの浪ロマン漫派的資質を、余すところなく露呈するものとなっているのは、何とも興味深いことだと思います。 とはいっても、やはり見逃してならないのは、この作品集の掉とうび尾に(最後に)付された「趣味の遺伝」と題する一篇で、当時、実際にロシアとの間で行なわれた日露戦争で戦死した、「浩こうさん」という登場人物に仮託して、近代日本が行なった戦争を、手厳しく39夏目漱石と日本の近代批判的に捉える真情をも決して隠してはいないという点です。 そのことは、東京(新橋駅頭)での日露戦争の凱旋パレードに遭遇しても、一向に万歳を唱えて歓迎するわけでもない語り手(「余」)の醒めた態度に認められるというだけでなく、また、国を挙げての戦勝ムードに対する、ほとんど冷淡ともいえる筆致からも、充分に窺うかがい取ることのできるところです。 このような意味で、『漾虚集』という作品集は、一見、同時代の現実問題とは無縁なように見えながら、実は、戦争で無むざん惨な死を死ななければならなかった人たちへの、深い哀悼と鎮魂の一書として、漱石にとっての、まぎれもなく「戦中・戦後文学」であったことを告げているものと思われます。文明批評家としての夏目漱石と「日本近代文学」の高峰―壮年期の代表的作品群 そのように、夏目漱石は、誰にも受け入れやすいユーモア小説を書いて人気を博した一方で、また、決して時流に阿おもねることのない、すぐれて「戦闘的な」作家でもありました。 もっとも分りやすい例を挙げるとすれば、たとえば、『二百十日』(明治39年10月)という作品で、阿蘇山という(九州にある)活火山の噴火とフランス革命とを重ね合わせて「文明の革命」(文明を革命すること)の必要性を説いていますし、また、『野分』(明治40年1月)と題する小説では、作者自身の分身ともいうべき白井道どうや也という名前の文学者を登場させて、自らの熱い情熱が吹き込まれた「維新の志士の如き」慷慨家に、文明批評の大演説を繰り広げさせているほどです。 そうした漱石一流の戦闘性は、プロの小説家に転じてからも、ますます強まりこそすれ、決して衰えるようなことはありませんでした。 大学を辞めたばかりで張り切りすぎたせいか、文体がいささか厚化粧になっている『虞美人草』(明治40年)という長編小説と、みずみずしい青春小説の代表作ともいえる『三四郎』(明治41年)とをはさんで、明治42年(1909年)に執筆された『それから』という作品は、漱石の数多くの小説に登場してくる様々な主題が絶妙に絡み合い、次第に熱を帯びて切迫してゆくという、前期三部作(『三四郎』『それから』『門』)を代表する傑作となっています。 ここで、『それから』について、少し言及してみたいと思います。 この作品の主人公、代助は、大学を卒業してからもう何年にもなる30歳の青年として設定されていますが、まだ一度として就職したことのない「高等遊民」をもって自ら任じています。彼は、「細さいち緻な思索力と、鋭敏な感応性」(細かい思索力と鋭い感受性)の持ち主であるにもかかわらず、「麺パン麭の為に働らく事」(つまり、食べるために働くこと)40言語文化論集 第XXX巻 第1号を潔いさぎよしとせず、時代が悪い、日本と西洋との関係が悪いから働かないのだ、と嘯うそぶいている(主張している)ような始末です。 とはいえ、このような主張の背後には、単に代助の私的な我わがまま儘というだけにとどまらず、実は、漱石自身の年来の課題ともいえる「日本の近代」との対決が目論まれており、新たな文明によってもたらされた風潮への不満や反発を、徹底的に考え抜いていこうとする、格闘する作家漱石の熱い意図が、深く込められていたのだと見ることができます。 こうして、『それから』という作品では、文明開化に対する東西(日本と西欧)の対照、「道義」という倫理観をめぐっての新旧世代の対立が、あらためて、真正面の主題に引き据えられて検討されます。そして、このテーマは、代助と平岡という友人、そしてその妻三千代との三角関係をめぐって、遂には破局に至る深刻なドラマとして、極限のところにまで掘り下げられていくことになるのです。 おそらくは、皆さんも同じでしょうが、時には、不安や悩みに囚われて、どうにもならなくなるということがあると思います。そうした時、重大問題を回避したり、安易にやり過ごしたりして済ませるのではなく、しっかりと正面から取り組んでみようとするのが、優れた文学の特徴とでもいうべきものです。漱石文学がまさにその一例で、後に後期三部作(『彼岸過迄』『行人』『こころ』)と呼ばれることになる作品群のなかでも、この問題は、さらに一段と深められたかたちで展開されていきます。 ところで、多くの人たち、特に、若者たちが不安と焦燥感に駆られるというのは、いわば過渡期というか、転換期に特有の現象ともいうべきものですが、当時の文明「開化」、すなわち、西欧の社会に習おうとした「近代化」と密接に関係したトピックとして、「自由と独立と己おのれ」(『こころ』)とに充ち満ちた時代にこそ生まれ合わせた人間たち通有の、「個我意識」というものが挙げられます。 そのような、ともすれば「利己主義」にも堕しかねない、「自由と独立心」に溢れた個人意識の実態を鋭く抉えぐり出すとともに、近代人の心の奥底を徹底的に掘り下げようと図った点で、漱石文学は、日本近代文学の稀有な高峰ともいうべき達成を示しているといえるのではないかと思います。端的に言うなら、漱石の小説作品は、まさに近代日本文学の発展過程それ自体の具体化に他ならず、仮に、自意識のドラマを描き尽すことが近代文学の本質をなすものだとするなら、とりわけ、漱石による二つの三部作は、その一つの頂点の姿を示しているには違いありません。 とはいっても、その際、同時に見落としてならないのは、そうした追求の行き着く果てに見えて来たもの、それこそは、実は、自意識の無むげん間地獄とでもいうべきもので、いわば行き止まりの袋小路でしかなかったのではないかという観点でしょう。 たとえば、『門』(明治43年)という作品の主人公、宗助は、禅(仏教)に救い(安心立命)を求めて得られませんし、また、『こころ』(大正3年)の「先生」は、「明治の精41夏目漱石と日本の近代神」に殉じるのだといっては、詰まるところ自殺することを余儀なくされます。作者の漱石自身も、これらの作品を執筆する途上で、たぶん、極端なストレスのためなのでしょうが、持病の胃潰瘍を悪化させたばかりか、漢詩や書画(書道や絵画)の世界に、息抜きのひと時を求めないではいられませんでした。 おそらくは、そうした事情の表われだと言っていいと思いますが、『行人』(大正2年)という作品の主人公で、大学の先生でもある一郎は、何か得体の知れないものに急き立てられるかのように、狂気すれすれのところにまで追い詰められていきます。その結果、取り上げられることになるのが、興味深いことに、中国は唐時代の禅僧・香きょうげん厳の逸話なのです。 唐の禅僧・香厳という名前は、―あるいは、皆さんの中
本文标题:夏目漱石日本近代
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